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人気順 10 users 50 users 100 users 500 users 1000 users時の在りか:石橋湛山は国葬に反対した=伊藤智永 | 毎日新聞
明治の元勲、山県有朋が83歳で病没したのは1922(大正11)年2月。時に37歳の雑誌「東洋経済新報」記者、石橋湛山(後の首相)は「死もまた社会奉仕」とコラムに書いた。長州閥で陸軍と官界を支配し、政党と民主主義をとことん嫌い、首相指名権さえ握った絶対権力者の死は、「山公」の糸に引かれていた「操り人形」を解き... 続きを読む
日本の知識人が「いつも中国を見誤る」理由 | 外交・国際政治 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
中国を、日本と同じ概念でとらえようとする日本の知識人は後を絶たない(写真:Stringer/REUTERS) 石橋湛山と「小日本主義」 「朝鮮台湾樺太も棄てる覚悟をしろ、支那や、シベリヤに対する干渉は、勿論やめろ」 これは大正10(1921)年、『東洋経済新報』に載った「大日本主義の幻想」という論説の冒頭のフレーズ。第... 続きを読む
姜 克実『石橋湛山』
「ナショナリズムの超克」−姜先生によればこのテーマこそ石橋湛山が最後の残したメッセージだという。戦前からの小国主義の立場、特に政界の第一線を引退してから強まった脱冷戦的な発想を引き継ぐ石橋の思想であり、今日的な意義がある、我々が立ち向かわなければならない問題だ。この石橋湛山の生涯とその業績の全体像を明晰な文体と分析でまとめあげたこの著作は、いまの日本社会に石橋が残したものを再検討する素材を十分に提... 続きを読む
石橋湛山はレジーム転換後に何を語ったのか?(メモ書き2)
以下はtwitterの記述をつなげたものに微修正を加えたもの 僕は、高橋是清をあんまり評価していない。当時の「リフレ派」高橋亀吉や石橋湛山も結局はそうだったのではないか。特に石橋湛山の高橋是清財政評価は時に苛烈な批判に通じている。ところでその苛烈なる批判を見る前に、石橋湛山が当時の日本経済の名目経済成長率を3%に見定め、それで財政の維持可能性(名目経済成長率と名目利子支払いとのバランスで考えるもの... 続きを読む
石橋湛山はレジーム転換後に何を語ったのか?(メモ書き1)
石橋湛山は1931年、1932年の二段階のレジーム転換後にどんなことを言ったのか。いまの日本経済を考える上でも重要だと思います。1932年11月以降から2・26事件が起きる前までに焦点をあてて、断続的に彼の発言を引用してみます。最初は1932年12月から1月にかけてのもの。マルクス主義的な立場だった有澤廣巳との論争を背景にしたもの。以下は今日、twitterに書いたものを並べただけのもの。まず(1... 続きを読む
石橋湛山の東京裁判における幻の弁護側資料:東京裁判史観と日本銀行史観の類似性
小堀桂一郎氏の編集になる『東京裁判 幻の弁護側資料』に、石橋湛山が極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)に提出した宣誓供述書と附属資料が掲載されていた。題名は「日本の工業化、侵略戦準備に非ず」と本では付されている。湛山は当時、東洋経済新報社長、大蔵大臣である。 戦後まもないころの石橋湛山の活動や彼の主張はこのブログでも全集未収録資料の発掘を含めて、かなり行ってきた(ここ、ここ、ここ、ここ、ここなどを... 続きを読む
石橋湛山の震災後の経済政策ーデフレではなく物価の安定をー
石橋湛山が関東大震災のときに、どのような経済政策を主張していたか。彼は外債発行の問題、都市計画についてなどいくつもの視点から論説を公表していた。ここでは大正14年の4月に公表された「物価の安定か引下か」の内容を紹介したい。「我が財界を暗黒にしているものは、政府の経済政策の暗黒である。略 政府の経済政策の暗黒とは何であるか。政府の、金解禁に反対しながら、しかも内心に於いては、兎角物価の引下の方針に固... 続きを読む